軍艦島と長崎と沈黙

軍艦島全景

2泊3日で長崎へ行ってきました。
面倒くさがりで、旅に出ても行き当たりばったりだったのが、今回は事前に下調べをしたので、かなりのハードスケジュールとは云え、濃密な時間を過ごしました。

相方さんのリクエストにより、長崎へ行く事になった訳ですが、丁度、その時分に遠藤周作の『沈黙(新潮文庫)』を読んでいたのと、元々、軍艦島に興味があったので、ではと云う事で、生まれて初めての長崎へ。

Day 1:
長崎空港から市街に到着し、30分くらい後にはもう長崎の街に魅了されていた気がする。
山の斜面に建てられた家々の風景に圧倒されて、よーく見ると、一軒一軒が、妙にお洒落な作りだったりする。
1970年代っぽい様な雰囲気と、洋風、和風が積み重なる様に混じり合って、上へ上へと伸びていく様は、横浜あたりともどこか異なる風景。
周りに山がない地域に住む自分にとってはなんとも不思議な光景でもある。
どんな街に住んでみたいと聞かれたならば、自分としてはこう云うところなんだなと思う。

初日は、出島あたりから、観光通り、眼鏡橋のある川沿いを歩き、サント・ドミンゴ教会跡を見て、歴史民族博物館横の防空壕へ。そこからお目当ての一つであった、日本二十六聖人殉教地へ。
今思えば、路面電車でさっと行けば良かったのだが、無駄に歩いた末に到着。
日本二十六聖人殉教地 1
日本二十六聖人殉教地 2

背教を迫られた切支丹の人々の、苦痛と苦悩は想像を絶する。
この地で悲惨な殉教があった事実と目の前の美しい景色に何か切なさすら感じる。
『沈黙』の中のキチジローのわめきを思い出す。

「この俺は転びものだとも。だとて一昔前に生まれあわせていたならば、善かあ切支丹としてハライソに参ったかもしれん。こげんに転び者よと信徒衆に蔑されずすんだでありましょうに。禁制の時に生まれあわされたばっかりに・・・・・・恨めしか。俺は恨めしか」

苦境に立たされた時に自分はどうするだろう。キチジローの様な弱い人間を蔑む事はできない、自分だってそうかもしれない。先の地震で真っ先に逃げた人や、買い占めに走った人々をも責めてはいけないのかもしれない。そんな思念に捕われつつ、殉教していった切支丹の人々にはただただ、頭が下がる思いである。

それから気分を変えて中華街へちゃんぽんを食べに行くも、どこも準備中。仕方がないので、名物の角煮まんじゅうを食べつつ、大浦天主堂へ。
大浦天主堂

日本二十六聖人に捧げられたと云う、日本最古のキリスト教建築物は原爆でも焼失しなかったとの事。
内部の作りも素晴らしく、キリシタンでなくとも懺悔したくなる様な雰囲気だが、生憎、教員を含めた修学旅行生のマナーの悪さにより、気分を害される。が、神の家なので、程々に押さえる。

それから、大浦天主堂のすぐ上にあるグラバー園へ。
スカイロードで上に行くと、長崎市街が見渡せる絶景。東山手も長崎港もよく見える。来て良かったとしみじみ思った。
東山手
長崎港

初日の締めは長崎最古の喫茶店と云われるツル茶んにてトルコライスを頂く。歩き過ぎで既に足やら腰やらに激痛。出発する前に関東は肌寒かったのに、こっちへ来たら真夏の様で、その中を歩き回ったので疲労は倍であった。

Day 2:
2日目は一番のお目当てである軍艦島(端島)へ。
が、メインイベントの前に、まさかのハプニング。何気なく写真を撮ろうとした瞬間にiPhoneが落下し、見事なまでにガラスが破損。気分を持ち直すのに時間がかかる。と云うか今もiPhoneを出す度に憂鬱になる。
iPhone3Gのガラス破損

無惨なお姿…。
どちらにせよ、iPhone5待ちだったから、よくもまぁこの時期まで3Gで保ってくれたと云うべきか。
なんでも良いから早く発表して欲しい。

とにかくもかくにも軍艦島クルーズ船”ブラックダイアモンド”に乗船し、いざ軍艦島上陸ツアーへ。
こちらの船が一番早い上に、途中の高島にも上陸できるとの事で、いささか船酔いを心配していたので、まよわずこのツアーをチョイス。
ガイドしてくれた、いい男風なおじさんはかつて軍艦島に住んでいたらしい。
海底炭坑で栄えた島と云う漠然とした知識と廃墟興味で今回訪れた訳だが、国のエネルギー政策の転換によって離島を余儀なくされた人々、緑のなかった炭坑の島から無人になったおかげで緑が増えた現状などなどの訴えは胸を打つものがあった。かつては繁栄し、自分や島民の普通の生活があった島を廃墟目当てで来る観光客、それを観光資源にしている者側としての複雑な胸中も伝わってくる。
ガイドさんは声を大にして云う、国のエネルギー政策によって福島でも同じ様な事が起こっているのだと。
軍艦島 1
軍艦島 2
軍艦島 3

あっと言う間の2時間のクルーズから戻ってくると、顔やら腕やらが、日焼けしまくりである。
腹ごしらえにようやくの長崎ちゃんぽんを中華街で頂く。それから早々に浦上方面へ。
平和公園へ訪れた後に浦上天主堂へ。
浦上天主堂 2

被爆マリア像を始め、原爆によって被害を受けた数々のものが、実に生々しく保存されている。教会堂の横の広場で子供達と喚声を上げながら遊んでいるシスターや、売店の大変にやさしい顔をしたシスターに打たれた心を和まされる。

そこから、原爆資料館へ行った後に、長崎原爆落下中心地へ。
原爆を落とされる前の浦上天主堂の遺構は凄まじい。
浦上天主堂 1

すぐ側には長崎原爆落下中心地碑。1945年8月9日 午前11時02分に500m上のこの空で原爆が炸裂した。
長崎原爆落下中心地

神の沈黙と云うテーマがここでも考えさせられる。
被爆された方々には非常に心を痛めるが、昨今の原発反対運動の流れに疑問を持っている自分もいる。現状の日本に抑止力がなくなった時の事を考えると、どうしても理想論だけでは片付けられない。福島の事で、感情的になるのは仕方ないし、軍艦島同様、国の怠慢によって故郷を離れなければいけない沈痛な様は、当事者ではない自分でも少しは分かる。だが、この資源の乏しい日本で、周りの物騒な国々とも付き合っていかねばならぬ事を考えると、結論は簡単には出ない気がするのだ。しかし、今回の旅でより深く考えるきっかけは与えられた事は確かである。

それから被害を受けた山王神社と一本柱を見に行く。爆心地からほど近いこの地にそびえ立つ楠の生命力の強い事に感動する。
本日も歩き続けでぐったりしていたが、気合いを入れて稲佐山へ。薄暗がりの中、ロープウェイで頂上の稲佐山公園へ。日本の3大夜景の一つなのだそう。確かに山の斜面から落ちて下にたまっていく様な街のあかりが素晴らしい。
長崎夜景

が、どうも最近高所恐怖症がひどくなっている様子。そこらの階段の昇り降りだけで足がすくむ事も多いので、相当な冷や汗をかく。
ようやく地面に着いた後、アーケード方面を食事処を探すべく、うろうろする。雰囲気が良さそうな店ばかりで悩みつつ、トルコライスの元祖のお店に辿り着くも店じまいとの事。この時点で20時半くらい。そこらのお店もどんどん閉まっている。仕方なく海辺の出島ワーフへ行き、最終的に何故か浜勝のとんかつで夕食。こちらの方はやっぱり薄味なようで、ソースが関東のこってりしたのとは違う。美味かったけど。それから何故かこっちのコカコーラの500mlペットボトルが異常に美味い。暑いからとかって云うのではなく、後味が全然違う。水の違いなのかなんなのかは分からないけれども、とにかく美味かった。
22時頃にホテルに戻ると完全なる疲労で早々にダウン。

Day 3:
3日目は、行きそびれた所を回って行く。先ずは東山手へ行き、東山手洋風住宅群と孔子廟へ。
洋風のすぐ横に思いっきり中華なので、実に不思議な光景である。
それから、寺町通りの方へ、路面電車で移動し、隠元禅師の興福寺から寺町通りを歩く。国宝の崇福寺に行ったあたりで雨に降られるも、そのせいか人が少なかったので、快適ではある。
昼には皿うどんを求め、思案橋の方へ行くも、行きたかったお店は残念ながらお休み。水、木曜あたりはあちこちのお店でお休みしているらしい。と云う訳で、前日に店じまいされてしまったトルコライスのお店のボルドーさんへリベンジ。こぢんまりとした店内は雰囲気も良く、かなり落ち着く。待っている間にPink Floydの”One Of These Days”が流れたりと、店主も音楽好きっぽい感じなのがまた良い。お味の方はやっぱり薄味だけれども美味。
雨も止まないし、大体行きたいところは行ったので、最後に予定外の長崎美術館まで寄る事ができた。
あと数日遅かったら、横山大観とかを見られたのですが、今回は美術館のコレクション展のみでいささか残念ではある。
須磨彌吉郎が収集したスペイン美術作品はなかなか素敵だった。エル・グレコの『キリストの磔刑と2人の寄進者』もこちらの美術館にあるそうだが、今回は展示されておらず、非常に残念。是非、直に見たかったものである。
※ 長崎美術館収蔵ではなく、国立西洋美術館の収蔵らしい。長崎美術館では2005年に「よみがえる須磨コレクション スペイン美術の500年」にて展示されたらしい。

そんなかんなで、程よい時間になったので、市街を後にして長崎空港へ。
羽田に着いたのは21時頃。体のあちこちが痛い。
しかし、これほど旅を楽しめた事もそうそうなかった気がするくらい、充実したものであった。
長崎と云う街の歴史の深さゆえに魅力も多いのであろうと、妙に納得している。
普段、見慣れないものを見て刺激を受け、おぼろげだった知識が深められ、色々と開眼させられた事は大きな収穫であった。

そんな今日この頃。

どん底

Miranda July

ミランダ・ジュライの短編集、『No One Belongs Here More Than You: Stories / いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)』(’07)(翻訳版 2010)をようやく読んだ。
映画、『Me and You and Everyone We Know / 君とボクの虹色の世界 [DVD]』(’05) の監督でもある彼女の16話からなる不器用で孤独ゆえに奇妙な行動してしまう人々のお話。

この人は何だろう、もの凄く自分に正直で、まさしく等身大の己の感性を作品に投影している気がする。
人間、見栄をはって背伸びしてみたり、他人が自分の事をどう考えているかを妙に気にしてみたりする訳なのだが、「だって人間なんだもん、仕方ないじゃない」といとも簡単に肯定しつつ、孤独だけれども、何処かユーモラスな人々を描く彼女の独特の手法は非常に細やかで、更には彼女の持つ一種の優しさみたいなものまでが作品の内側から溢れ出てくる。
そのディテールの丁寧さ、日常のなんでもない事が、この人にかかると魔法にかけられた様に生命力を持つ。無造作に置かれた雑誌やら、ベットのシワやらそこら中のものが、大事なアイテムであり、物語の布石となる。
神は細部に宿るとは良く云ったものである。

名もなき者の、しかしその人にとってはそれが全てである生活、どこにでも居そうな人間のささやかやな生活を大事に大事に表現する。その辺りは彼女のアートパフォーマンスやWebサイトにおける取り組みでも垣間見る事ができ、その名もなき人々を尊重する態度に尊敬すら覚える。

ソフィア・コッポラを引き合いに出すのもアレだけれども、昨今の女流作家として、懐の深さを表現するに至ってはミランダ・ジュライの方が個人的には好みである。
共に恵まれた環境で育った様だが、ソフィア・コッポラの方は、それはそれで面白いのだけれども、どうにもお金持ちの悩みと云うか、そんなもので、いささか共感しづらいものがある。
と云うか、単純にミランダ・ジュライの方が可愛いかったりする。ストライクでタイプ。容姿に関してはこっちに軍配が上がると勝手に思っている。

ミランダ・ジュライの作品は細かいものにまで持つ彼女の旺盛な好奇心がこちらに伝わってくる。生活するって事が、まるで宝探しをする事だと言わんばかりの表現が作品内の不器用に生きる人々と同様に享受しているこちら側のどうしようも無くパッとしない生活にも束の間の安堵を与えてくれる。
彼女の好奇心は自己の分析に始まり、壮大な宇宙の心理にまで辿りつく。彼女自身の言葉で。
良くも悪くも、自分を知ると云う事が、自分を表現するにあたっての超がつく程の基本事項なのだと再考させられる。
語り口にユーモアが溢れているのもやはり好奇心の結果としての視野の広さの賜物であるのだろう。

忘れた頃にちょくちょく読み返したくさせる、そんな一冊である。
映画の方の次回作の”The Future”もそろそろっぽい。最も公開が楽しみな作家の一人である。

“The Future” 予告編

Miranda July Website (死ぬほど重い)

))<>((

重い2本立て

先日、レンタル落ちの「裸の島」(’60)をゲットしまして、ちょいちょい訪れる新藤兼人作品への渇望が再燃したので、「人間」(’62)を観る。

簡単に説明すると極限状態に陥った人間が何をやらかすかと云った映画なのですが、いやー浅ましい。先日亡くなった佐藤慶の役どころが浅まし過ぎる。けれども気持ちはよーく分かる。やっぱり自分が一番大事なんですね、人間ってのは。
罪と罰(新潮文庫)」の中にこんな一説があるのだが、

“ある死刑囚が、死の一時間前に、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのような狭い場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、 ーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、 ーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていかなければならないとしたら、 ーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きていけるほうがましだ!生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい!どんな生き方でもいい、 ー生きてさえいられたら!・・・・なんという真実だろう!これこそ、たしかに真実の叫びだ!人間なんて卑劣なものさ!その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ”

と己の理屈から殺人を犯したラスコーリニコフは言う。
と云う訳で、極限に追い込まれると生き抜く為に弱肉強食となるのは生きものの性なんでしょうね。そんな恐怖なお話を見事な撮影で表現されている。甲板から細く漏れ出る灼熱の太陽光で照らされてうかがえる狂気に変貌していく人間が何とも強烈である。と云うか乙羽信子が笑えるほど体張り過ぎである。だから好きなのだが。
ひたすら理性を守り通し、生を渇望し続け独り生き残る、殿山泰司もまた証言もなんにもないのだから人肉喰らいの汚名を着せられ後ろ指をさされ続ける人生を歩みかねないと云うなんとも残酷な結末。
欲と理性の2つの側面がせめぎあい理性が生き残ったって映画なのだけれども、人生って複雑なものである。”その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ”と云う一説がズシーンと重くのしかかる。
外は台風だったので、微妙な臨場感と共に鑑賞しました。

で、2本目はミヒャエル・ハネケ監督の映画デビュー作品で
The Seventh Continent“(’89)を観る。
ミヒャエル・ハネケ監督作品は”Funny Games“(’97)しか観た事なかったのですが、面白かったけれどもあまりにトラウマ過ぎていささか他の作品を観るのを敬遠していたのですが、今作もやっぱりトラウマ級でした。
実際にあったお話らしいですが、先進国ならどこでもみられるありふれた家庭が崩壊していく様を、’87、’88、’89年に渡り、プロットで淡々と語られていく。それはもう淡々と。生活のすべてが最後の1日に自分たちの手で破壊されゆく様もまた淡々としております。家族は1つの終焉に向かいあまりに淡々と破壊し始めるので観ている方はこの人たちなにやってんのーって感じなのですが、段々と良く分からない不安感と悲しみに支配されていきます。そうしてまだ見ぬ第7の大陸へ行くのだそう。
重苦しい、実に重苦しい。ハネケ作品はやっぱり後味が重苦しい。がそれがまた嫌いではない。
“人間なんて卑劣なものさ!その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ”
って一説がまたズシーンとくる。

とむやみに重いのを2本立て続けに見るのは良くないと結論。
笑える映画が観たくなってきた。
そんな今日この頃。

william kentridgeと青空文庫

先日の事ですが、東京国立近代美術館にて開催されていた

ウィリアム・ケントリッジ
歩きながら歴史を考えるそしてドローイングは動き始めた……

william kentridgeと青空文庫 01

を見に行ってきました。
木炭とパステルで描いたドローイングから生み出されるアニメーションが非常に味わい深く、アナログならではの良さを堪能しました。
かなり気の遠くなる様な作業だと思うのですが、1コマごとに書きなおされていく過程に残る跡がなんとも不安定で心地よい。

日本で初の展覧会らしいのですが、映像作品をすべて見ると約2時間と云う、やや無茶ぶりな展示。
どーせならフィルムセンターかなんかでゆっくり見たかった気もするのだ。
自分が悪いのですが、行った時間が15時過ぎだったのでかなり慌ただしい結果となり、いささか残念ではある。

それにしてもいつも美術館に行く時は予備知識なしでふらっと行く感じなのですが、やっぱり色々と頭に入れておいた方が何かと楽しめるのであろうかと。
今回にしてみれば、アパルトヘイトの歴史問題なんか理解していると更にエンジョイできた気がするのだ。
それからゴーゴリの『』を題材にしたのとかもあり、読んでないので、半減でした。

と、云う事で早速読んでみました。ゴーゴリ。『外套』と併せて。
ドストエフスキーは大好きなのですが、ゴーゴリはなかなか読む気が起きずにずーっときていたのですが、ようやくです。
しかし、ある日、起きたら鼻がなくなっているってどんな感じなのでしょーね。

で、最近また読書熱が再発しているのですが、時代はiPadの時代です。
iPad出たら多分、買っちゃうかと思うのですが、最近の読書はもっぱらiPhoneです。
我ながら未来系な生活送っております。

william kentridgeと青空文庫 02

iPhoneのアプリで豊平文庫と云う青空文庫リーダーのアプリがあるのですが、これを入手した途端、読書の未来が見えました。
確かにiPhoneやらで本を入手して読むって事が、かつてのiTunesの如くあたりまえになる日もそう遠くなさそうです。
なにしろ、出不精のなまけものなので、寝ながら本をチョイスして、そのまま
読めるとあれば、これ以上ないくらいの贅沢です。
何を言っている、本は紙で読むのが良いのだとお叱りを受けそうですが、
要は場合に応じてって事で。本でなきゃ駄目な時もあるし、電子書籍の方がベターな場合もあるって事なのでしょうね。CDとiTunesみたいに。
Googleでも書籍内容を検索できる様になるならいと色々あるみたいですが、ユーザーの立場からすれば大歓迎です。書き手には色々あるのでしょうけども。
しかし、青空文庫はすばらしいですね。パブリック・ドメインものだけとは云え、結構な量なので、この先ずっとお世話になりそうです。
編集、校正を行っている方々、頑張って下さい。
しかし素晴らしいとは云え、これをブラウザで読む気はしないだけにiPhoneとの組み合わせが最強な気がします。

そんな今日この頃。

ジョジョはお好き?

ジョジョの奇妙な冒険』と云う漫画がある。

人を吸血鬼に変えてしまう”石仮面”をめぐり、英国名門貴族のジョナサン・ジョースター
及びその末裔達とジョースター家に養子として入りながらも石仮面を被り吸血鬼と化し
不老不死となったディオとの戦いを描く物語である。

もはや説明がいらないくらい知名度が高い今作ではあるが、少年ジャンプの初連載
当時に小学生だった自分としては、やたらに絵がグロテスクでなんだか『北斗の拳』
みたいのが始まったぞと感じ、いささか抵抗を覚えたのであるが、毎週読み進めている
間にいつのまにか虜になってしまったものである。

先ずは、これはもう擬音の宝庫と云うしかないであろう擬音の数々。
ほとんどのコマにこれでもかと云うくらいの擬音。中には訳分からんのもある。
それから吸血鬼と化したディオが発する、
"UURRREEEEEYYYY!"とか
"無駄無駄無駄無駄ァッ!"
とかよくまねしたものである。
考えてみると、いまでこそメールの文章で小さい”ァ”とか”ッ”とか当時はあまりなかった
んでないかと云う気もする。
それ故にやたらに勢いを感じるのであろう。

それから物語の中でかなり頻繁にでる、やたらに強烈なポージングとか体の
動きとかも、かなり目を引かれる。
ジョジョ愛好家のみなさんの中では”ジョジョ体操”なんてものもあるらしい。

物語自体もかなり魅力的であり、第2部、第3部とその子孫達とディオとの因縁も
面白い。

で、なんで今ジョジョなのかと云うと、YouTubeを眺めていたらアニメの
ジョジョやら前述の”ジョジョ体操”を見て突然に読みたくなったのである。
が、しかし、以前集めていた単行本はとっくの昔にBOOK OFFに売り払って
しまい、仕方がないので機会がある度に購入している次第。

ようやく単行本の17巻、第3部が終わったところまでは読み終える。
昔読んでいた時もここまでしか読んでいなかったので、第4部以降を読むかは
思案中である。

しかし、人間ってものはとかく自分の好きなものを他人にすすめたがるものである。
その昔、相方さんが知人にオススメされて単行本を貸りたらしいのだが、その時は
読まずに返却したとの事。何故と問いかけると絵がなんだかテラテラしているとか、
何を描いているのは分からない等々、散々な言われ様。
しかし、読まず嫌い食わず嫌いは良くありません。と云う事で半ば無理矢理に
現在読ませております。嫌いなものは嫌いって結果になりそーな気はしますが。

そんな今日この頃。

ジョジョの奇妙な冒険

名画座番外地「新宿昭和館」傷だらけの盛衰記

Webの制作・管理をさせて貰っている川原テツ氏の
"名画座番外地―「新宿昭和館」傷だらけの盛衰記 (幻冬舎アウトロー文庫)"
が12月3日に文庫版として装い新たに発売された。

名画座番外地

と云う事で久々に読んでみたのだが、相変わらずのボキャブラリーの多さに
ついついニヤッとしてしまう場面が多い。
場末の映画館を知らない人でも読み物として大いに楽しめるであろうと感じる
理由としてはやはり氏の人柄やセンスなどの魅力が溢れているからであろう。
この人はドSでありながら、本当に優しい心の持ち主なのだと否応無しに感じさせるのだ。
これは昭和館の人々ほどではないものの、交流を持たせて貰っている僕の
個人的な、率直な意見でもある。
更には度々感じる氏の礼節を常に重んじる姿勢は昭和館や米子ちゃんや様々な人から
学び、そして人格形成された結果であると思われ(もちろん本人ではないのでそのすべては
把握できかねるが)、それを僕としては尊敬せざるを得ないし、だからこそ氏が好きなのだ。

今回、再び読んでみて僕の中にはキーワードとして”経験”の二文字が浮かんできた。
この本に描かれている事はまぎれもなく氏の実経験に基づくものであり、だからこそ
描写に深みが生まれ、こちらの胸に突き刺さってくるのだ。
個人的に知識と云うものについて考える事が多いのだが、大学等に入って知識の幅を
広げる事は当然悪い事ではないし、むしろないよりはあった方が良い。
そうかと思えばドストエフスキーの「未成年 (新潮文庫)」の中のマカール老人曰く、

“わたしは思うのだが、学問をおさめるほど、ますます退屈になるものらしい。ま、考えて
みなさい、世界が生まれてからこのかた、いろいろな人がいろいろ教えてきたが、世界がいちばん美しい、そして喜びがいっぱいの住居になるような、なにかいいことを教えてくれたかね?〜”

に対しすべてとは云わないまでもやっぱり納得してしまう。
つまり何が言いたいかというと、経験は机上の知識に勝ると思うのだ。
知識のないせいで人生を成功させる事が出来なかったとしても、机上の知識を
ひけらかす人間よりは美しいと思うのだ(多少乱暴だとは思うが)。
知識自体は悪い事とは思わないが不遜であってはならない、ましてや他人を見下しては
ならない。そう云う意味で残念に感じてしまう人は世の中に多々いる。
氏の如く痛い経験をしてこそ、その言葉に重みが生まれるのだろうし、本当の意味で
他人に気を遣える人間になれると思うのだ。
氏は多分、自分はそんな完璧な人間じゃないと言うであろう、確かにその通りである。
誰しも嫌な部分は持っている筈ではある、が、本当の不遜な人とそうでない人の間には
確かに明確な区切りがあると感じてしまうし、少なくとも氏を知る者としての感想と
しては氏に不遜の影は見受けられない。
もちろん人間がどう変わっていくかは知る由もないし、氏にしてみたって時には間違いを
犯すかもしれない。
しかし、今作の楽日の章の米子ちゃんのスポットライトのシーンはまぎれもなく
氏の本心であろうし、経験なくしての想像からではここまで人の心に訴えてくるものは
出てこないと思うのだ。
だからこそ、僕は経験を支持するし、そうありたいと願うのだ。

このところ悲しい事や色んな出来事が僕のそばを通り過ぎ、いささか疲れもしている
のだが、これも経験なのである、どうにもならない様な仕方のない事の連続でも、過去を
引きずりながら生きるとしても陽気に生きて行く事が大切な気がするのである。

ほころびがあったとしても美しい瞬間が生きているうちにはあるのだと感じた
今日この頃。

追記

文庫本発売に併せて"川原テツ – official website"もコンテンツを色々と増えました。
本には描かれていない昭和館のエピソードやら多数アップされています。

http://kawahara-tetsu.com/

豚と軍艦

「インターナショナルゥ!」

季節はすっかり夏である、
終戦記念日もあと半月と迫った今日この頃、
今村昌平監督作品『豚と軍艦』(’61)を観る。夏なので。

それにしても大傑作である。どの作品観てもアナーキーである。
そしていつの時代も男はアホな夢を見てしまうのである。
若い2人はそうして生きていく。
理想に生きるヤクザな男、長門裕之と貧乏してでも堅実な生活を
願う吉村実子。
米軍基地がある事により潤う横須賀の街で彼等は生きている。
米兵のパンスケとして生きる事が彼女の家族にとっては幸せ
であるし、彼女自身、楽で華やかな生活ができるのだ。
しかし、己の信念を曲げずに人を愛す強さがそこにはある。
そんな彼女は言う、
「あんたはアレんときだけやさしいのね」と。
う〜む、思い当たるフシがありまくりである。
それでも男を更正させるべく奔走するあたりにグッとくるのだ。
それはそうと本日の夕刊で慰安婦問題の公式謝罪要求決議案が
可決された。日本が文句を言えないのは当然分かるのだが、
アメリカさんも日本や朝鮮で似た様な事しているのにね。
さらに疑問なのはマイケル・ホンダ。この映画の主題にも通ずる
気がするのだ。
劇中で日系アメリカ人と中国系マフィアが裏取引の場で、
我らは同じ民族を日本人の様に欺く事はしないと言い切る。
どっちの国もそんなに好きではないのだが、自国の利益を強く
守れる強さは国家としてそうあるべきだとも思うのだ。
核の傘に守られている以上しかたないのではあるが、ほいほい
謝ってしまうのだけはやめてねと思う。
東洋一の港に街を覆うほどの豚がラストには放たれる。
あたかも軍艦で乗り付けた資本主義の豚が他国文明を侵略するかの
如く。
カタギになる事をう吉村実子に誓った長門裕之は切なくも最後の
仕事の中で無惨にも死んで行く。便器に顔を突っ込んで。
最後のシーンでアメリカさんの恩恵に授かろうと横須賀にやってくる
日本人所女性をかき分け横須賀を去る吉村実子に正直、感動してしまう。
欧米化してしまうのは仕方のない事なのであろうが、日本人たる事の
誇りは失いたくはないものである。

笑ったのは、死体を隠すくだりでいくら隠しても戻ってくる上に、
豚舎にバラした死体を遺棄したのに豚料理にしっかり入っているあたり、
笑いなしでは見られない。今村昌平って凄いなぁと思う。
日本映画学校に通いたかった。

話は変わるが、お世話になりっぱなしの我が敬愛の川原テツ氏が
晴れて処女作を発売した。
タイトルは『名画座番外地―「新宿昭和館」傷だらけの盛衰記』。
私はまだ途中であるが、大変に面白い。
兄さんの人徳と優しさを垣間見ずにはいられない。
知人を抜きにしても傑作である。
本当に自分の事の様に嬉しいのである。

そんな今日この頃。

めぞん一刻とタッチ

最近、TVにて実写版の『めぞん一刻』を放送する、した? 様で。
なんとなく『めぞん一刻 (小学館文庫)』を引っぱり出してみる。
いやはや、久々に漫画で泣きました。
小学生高学年のくらいの頃であったであろうか、スピリッツにて連載していた
この作品は私にはいささか大人過ぎたのであるが、今時分に読んでみると
やたらと胸に響きます。
ひとえに結婚適齢期を迎えているせいとも思われるが、五代君のプレッシャーが
手に取る様に分かる。
そう云うのが分かる歳になったのだと思う事もやや寂しい。

それにしても音無響子さん、かつてはとっても魅力的に映ったものですが、
この歳になってみると面倒くさそうってのが先行する。
実際にはこんなひとはいないと思うけれども、いたら本当に困ってしまう。
面倒な事とか細かい事とかが段々とどうでもよくなってきているのだ、
仕方のない事と思ってしまう事が波風立てない方法として、近頃それに甘んじて
いる。そればっかも良くないとは思うけれど。
そんな訳でこの作品のキャラで好みとしては、六本木朱美さん、この人に尽きる。

そして同じ紙袋にしまわれていた『タッチ―完全版』もついでに読んでみる。
こちらは、なんとも健気な南ちゃんにいい歳して胸キュンでした。
気配りの連続、当然好きだからなのでしょうが、良いなぁと思ってしまう。

そう言えばタッチの続編をかつて観たと思うのだが、タッちゃんがメジャーに
行くと云うすごい内容だった気がする。南ちゃんはカメラマンかなにか。
甲子園までで良い気がする、この作品は。

’80年代の漫画は熱い。
そんな今日この頃。

「雨の木」を聴く女たち

大江健三郎著の『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち (新潮文庫)』を読み終える。
なんとも読みにくい本である。
何度も読み返さないと理解不能の文章が多々あったが、終わってみると
何故か変な達成感に満ちていた。
面白いんだろなぁ、これ。多分。
武満徹が出てくるし。
宮沢さんのパール・ハーバーの主張のくだりと、父親死ぬ直前に言った
言葉に特に感銘を受けた。
それにしてもこの人の性表現は露骨で面白い。

次はさらっと読めるものを読みたいと思う今日この頃。

あれはいいやつだ

この間、K氏に頂いたスタインベックの『ハツカネズミと人間 (新潮文庫)』を読み終える。
以前、これもK氏のおすすめで『怒りの葡萄 (新潮文庫)』を読んで一気にスタインベックの
ファンになり今回に至る。

なんとも『怒りの葡萄』以上に悲しい終わりであるのだが、スタインベックの
それはなんだか優しさに溢れているのだ。
’20年代ロスト・ジェネレーションよりもスタイベックの方が好きに
なってしまったのは、彼の持つ微妙なヒューマニズムと云う様なものに
強く共感できるからなのだ。
同じ頽廃でもこの違いはかなり大きく感じてしまう。

この本で好きな台詞
「いいやつになるには、あたまはいらねえからな。おれは、ときによっちゃあ、あたまはその反対に働くような気がするぜ。ほんとに利口な男には、いいやつなんてめったにいねえからな。」
いいなぁ。
情景の表現も素晴らしかった。これだけ目に映る文章を描ける様になりたい。

近々、『二十日鼠と人間』劇場版も観ようかと思う。
レニーがジョン・マルコビッチかぁ…
なんと私の好きな『ツイン・ピークス』の中でも特に好きなシェリリン・フェン嬢が
出ているではないか。
全くのノーマークであった。
『怒りの葡萄』を観た時はいささかガッカリしたからなぁ、面白いと良いなぁ。

そんな今日この頃。